1957年に誕生したスカイライン。日本のモータースポーツ創成期から、常に第1戦で活躍してきた名車中の名車です。
その長い歴史の中で、異端児ともいわれたモデル"RS"とは一体どんな車だったのでしょうか?
「鉄仮面」「ニューマン・スカイライン」とも呼ばれたR30スカイラインが誕生した経緯やレースでの活躍とあわせてご紹介します。
1973年以降、GT-R不在の時代
1973年、ケンメリGT-Rが197台をもって生産を終了して以来GT-Rの幻想に縋り、あるいは追われながら1977年に5代目、ジャパンにモデルチェンジします。
しかし、最もスポーティーなグレードGT-ESでも4輪ディスクブレーキを装備する他は特に差別化はされず、エンジンもほかのGT系に搭載されているのと同じ130ps仕様のL20E型で動力性能的には特段見るべきところのない状態でした。
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これは、昭和48年より段階的に強化されてきた排気ガス規制に対応することに追われていたという面もありましたが、それ以上にケンメリが5年間のライフの中で40万台以上を売り上げる日産のドル箱車種になったこともあり、「スポーツ性能より豪華さ」が受けたと判断され、あくまでもスポーティな匂いを漂わせたラグジュアリーカーとして売りたい販売側の思惑が前面に出た結果とも言えました。
しかし開発側としては、ハコスカのようなスポーティーなファミリーカーとして作りたいという思惑もあり、ケンメリよりは若干ハコスカに寄っていたりと、販売の要求と開発の理想のせめぎあいを伺わせるグレード展開をしていたのでした。
そんな中、1979年にトヨタが2代目セリカの後期型で「名ばかりのGTは道を開ける」「ツインカムを語らずにGTは語れない」というキャッチコピーを掲げた事から1980年、ジャパンの後期型でターボチャージャー付きL20ETエンジンを追加。
「今、スカイラインを追うのは誰か?」と反撃の姿勢を見せ始めたのでした。
「レーシング・スポーツ」という名のグレード
イメージキャラクターにアメリカのIMSAシリーズやル・マン24時間耐久レースにも参戦していた俳優、ポール・ニューマンを起用し「ニュー・愛のスカイライン」と、キャッチコピーもハコスカへ回帰するようなイメージを打ち出したのでした。 ©NISSAN
さらに従来ボディサイドに入れられていたサーフィンラインは消滅し、4気筒モデルと6気筒モデルでノーズの長さを分けていたものを統合。
新しい時代のスカイライン像を打ち立てるべくスタイリングを一新したものの、メカニズム的にはL20型を引き続き搭載するなど機構的にはジャパンのブラッシュアップともいえる内容だったのですが、R30へのモデルチェンジに遅れること2か月後の10月、R30シリーズの真打ともいえるグレードが追加されたのです。
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それがRSと呼ばれるグレードでした。
さらにRSとは「レーシング・スポーツ」の略だと公表された時には、ある種の衝撃が走りました。
なぜなら排気ガス規制が施行されたころと前後して、暴走族が社会問題となっており、モータースポーツ=悪というレッテルが貼られ、スポーツカー全体に反社会的なイメージ付けが新聞・テレビなどのメディアによってなされていたからです。
その真っただ中の1974年、初代シビックに追加されたグレードもRSと名付けられていたものの、その意味は「ロード・セイリング」というマイルドなイメージ付けを迫られるほど社会的にレースイメージを前面に出すのは憚られる時勢でした。
その後、排気ガス規制もひと段落し、段々と高性能を売りにし始めた各メーカーですが、スカイラインだけはハコスカの50連勝のイメージが強く、GT-R待望論が絶えません。
そこへ投入されたRSは1気筒当たり4バルブのDOHCヘッドを持つ本格派として華々しくデビュー!
当時DOHCエンジンを市販していたトヨタといすゞは1気筒当たり2バルブ仕様だったのに対して、レースイメージ直結のFJ20Eは大きなアドバンテージを得て、レーシング・スポーツの名に恥じないスペックを誇りレース復帰への期待も一気に高まったのでした。
RSの心臓、FJ20Eとは?
R30発表から遡ること数年前、2リッター6気筒で専用エンジンを造りたかったスカイラインの開発責任者、櫻井眞一郎氏が新型エンジンの開発を訴えたところ「スカイラインの為だけに専用エンジンを開発することは認められない」という経営会議の結果、汎用性のある4気筒ならば、ということで開発にGOサインが出されました。
また、同時にセドリック/グロリアの営業車グレードやホーミーなどに用意されていたH20型(2000cc OHV)エンジンを置き換えて新型にする計画があった事から、生産設備を流用する案が採用されH20型をベースにすることが決定されたのでした。
ちなみにH20型自体はフォークリフト用など、様々な仕様変更を受けながら最終的に2003年まで生産されました。
DOHC化の基本的な考え方は、トヨタのT型シリーズやR型シリーズのDOHC仕様と同じく元々カムシャフトのあったところにオイルポンプとディストリビューターの駆動用シャフト、通称「ジャックシャフト」と呼ばれるものをさし、そこから2本のカムシャフトを駆動する2ステージ仕様とされました。
そして、駆動方式は普及しつつあったベルト方式ではなく高回転時のバルブタイミングの正確性と耐久性の高さを狙いダブルローラーチェーンを採用。
ヘッドの設計自体は、かつてのS20と同様のバルブ挟み角とし、ECCSと呼ばれる日産のインジェクションシステムで制御する仕様となったのでした。
このインジェクションシステムも従来の物とは異なっており、1気筒ずつ順番に噴射するシリーズ噴射ではなく爆発気筒ごとに噴射するグループ噴射と呼ぶシステムを採用。
より高効率でハイパワーを狙える仕様になっていたのです。
GT-RになれなかったRS、しかし…
そんなハイスペックなFJ20が搭載され、鳴り物入りでデビューしたRSですが「なぜGT-RではなくRSなのか?」という疑問が当然のように出てきます。
その疑問に対して櫻井眞一郎氏は「GT-Rというのは直列6気筒でなければなりません、従って4気筒であるRSにGT-Rを名乗らせることはできません」と答えたのでした。
また、「他を圧倒するほどの高性能」もGT-Rの要件であったので、敢えてGT-Rを名乗らせず「RS」と命名したそうです。
余談ですが、後日のインタビューで「実はFJ20の開発が間に合えばジャパンの4気筒モデルに載せたかったんだ」とも語っていました。
そして、ターボ仕様のL20ETの145psを上回る150psを叩き出し2リッター最強の座を手中に収めたRSに、トヨタがすかさず反応します。
1973年、雨の富士1000kmで優勝したセリカLBターボをルーツに持つ1気筒当たりツインプラグ仕様のツインカムターボエンジン3T-GTが、1982年8月にセリカ・カリーナ・コロナに搭載されて登場。
最高出力160psと、かつてのS20の最高出力に合わせただけでなくFJ20Eを超えるスペックを示しました。
日産もすかさず、1983年2月にはターボ仕様のFJ20ETを搭載したRSターボを追加。
190psという出力を得たRSターボは、「史上最強のスカイライン」とGT-Rをも超えた事をアピール。
こうして各メーカーがしのぎを削るパワーウォーズと呼ばれる風潮に拍車をかけていったのでした。
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さらに1983年8月にはマイナーチェンジでRSシリーズは内外装の手直しを受け、電動パワーシートにオートクルーズやパワーウィンドウ、パワーステアリングなどを標準装備した豪華版RS-Xを追加。
外装は薄型ヘッドライトにグリルレスの顔面を持ち、それが西洋甲冑に似ていたことから「鉄仮面」とあだ名されるようになりました。
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豪華版が出た背景には「RSは性能はいいけれど装備の割には高い」という不満の声があり、その声に応じる為の策だったのですが、一方ではマークⅡシリーズに対抗するための措置でもありました。
また、ライバルと見ていた車がセリカからマークⅡに変わっていますが、それには理由がありました。
ほぼ同世代のGX51型クレスタが、この頃爆発的な人気を博すようになり、更にマークⅡ・チェイサーもモデルチェンジにより上級ミドルクラスというローレルが開拓した市場を席巻し始め、のちに「ハイソカー」と名付けられるブームが起きるのですが、ローレルだけでは対処できないという事で、営業からの要請でスカイラインにもこの路線への転向を迫ったのでした。
その一方でハイパワーと運動性能を武器に、国産車最強の座を欲しいままにしていたRSターボは、さらにインタークーラーを装備して充填効率を上げたターボCを追加。
最高出力205psをマークし、国産車で初めての200psの大台を超えた車として大きな話題となったのです。
しかし、この矢継早のマイナーチェンジと追加は一部のユーザーからは不満の種となり「この間買ったのにもう型遅れになったじゃないか!」という抗議の声も少なくはありませんでした。
そうした声もありながらモデル末期まで改良の手を緩めず、1984年8月にはATも追加しバリエーションを広げていったのです。
1982年5月、サーキットに還る
中心人物は長谷見昌弘氏。かつて日産ワークスでハコスカGT-Rを走らせていたその人でした。
同じく日産ワークスに所属していた柳田春人氏がバイオレットで、星野一義氏がシルビアを使い富士スピードウェイの富士グランチャンピオンシリーズの前座レース、グループ5規定の富士スーパーシルエットシリーズに参戦しているのを見て「面白そうなことやってるな」と思っている時に、日産の販売店の一つ、日産プリンスの社員から「レースで走るスカイラインが見たい」という想いを聞いた長谷見氏は、「日産プリンス・ディーラーズ・クラブ(NISSAN P.D.C)」というステッカーを作り、カンパの代わりに1枚1000円程度で販売し売り上げを車両製作代に充てました。
そして、童夢から独立した三村健治氏と小野昌朗氏が率いる東京R&Dに車両を製作してもらう計画を立て、グループ5仕様バイオレットターボに搭載されていたLZ20Bターボエンジンをレンタルしてもらうために日産に話を持って行ったところ、あれよあれよという間に日産直轄でやることになります。
その際「スカイラインだけではなく他の車種も」という事になりブルーバード、シルビアも含めて新たにマシンを製作することが決定、ここに「日産シルエット軍団」が誕生したのでした。
Photo by Adithya Anand
エンジンは当初の予定通りLZ20Bターボ仕様で機械式インジェクションを装備し、最高出力は570psを発揮。
車両の製作はノバ・エンジニアリングに依頼し、1982年5月に筑波サーキットでレースでデビューします。
しかし、トラブルで早々にリタイアしたものの、次戦の富士では早くも勝利を飾ったのですが、この時の事を長谷見氏は「最終コーナーを立ち上がるとね、グランドスタンドにいるお客さんが総立ちになってるんですよ。あの光景を見ると、ああ、スカイラインで走ってよかったなぁ、って思いましたね」と語っていました。
その後、シリーズが終了する1984年まで勝率5割を超える強さを見せ、日本のグループ5の代表格ともいえる存在になりました。
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また一方で東京R&Dで製作する案も生きていて、こちらのマシンは南アフリカのキャラミ9時間耐久レースに参戦します。
その後、1982年より発効したグループC規定に合わせてルーフを低くするなどの改造を成し「スカイライン・ターボC」と名付けられ全日本耐久選手権に登場。
一瞬の速さをみせるもののポルシェ956には敵わず、のちに純粋なグループCカーであるLM04Cへと発展していくのでした。
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これらの活動により、従来の開発拠点である神奈川・横須賀の追浜の開発部隊を、ユーザー向け窓口として設置していた東京・品川の大森のスポーツコーナーと統合し、レース専門子会社「ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル」(NISMO)を1984年に設立することになったのです。
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そして1985年からはグループA規定での全日本ツーリングカー選手権が開催され、いよいよ市販車ベースでのレースに本格復帰したのですが、第1戦のSUGOではトヨタのAE86に優勝をさらわれ、最終戦の富士インターTECでは海外から遠征してきたボルボ240に1-2フィニッシュをさらわれるなど苦戦が続きました。
しかし、1986年には鈴木亜久里氏がRSターボでシリーズチャンピオンに輝くなど一定の戦果を挙げることに成功します。
1985年というのはスカイラインのモデルチェンジイヤーに当たり、8月には次世代のR31へとモデルチェンジを果たしていたものの、レースには不向きな車体になっていたことを理由にR30での参戦が続けられたのですが、旧型車両という事もありエボリューションモデルの投入もなされず終始苦しい状況での戦いを強いられていたのです。
毎週日曜夜8時、テレビの前に釘付け
それが「西部警察」でした。
裏番組にNHK大河ドラマなど視聴率争いが激しいこの時間帯で、平均視聴率20%以上を叩き出すこの人気番組にもRSを投入したのです。
特殊機械やコンピューターを装備し、社外エアロパーツでドレスアップしたRSはたちまち人気となりました。
その後RSターボを2台追加し「マシンRS軍団」と名付けられ、特にRSターボがベースのRS-1には「アフターバーナー」という機能が備わっており、スイッチ一つでマフラーから火を噴く仕掛けがグループ5のシルエットフォーミュラーのアフターファイヤーとイメージを重ねる視聴者も多くいました。
そして当時見ていた少年や子供たちが免許を取得できる年齢になった時には憧れだったRSを買う。
または、スカイライン自体に憧れてゆくゆくはスカイラインユーザーになるという大きな影響も生まれました。
さらに販売終了から数年後、大鶴義丹氏が役者デビューを果たした映画「首都高トライアル」にもRSターボが出演。
これに憧れる方も少なくありませんでした。
まとめ
さらには日産の組織変更につながっていくというドラマチックなストーリー。
様々な出来事からRSはスカイラインの歴史の中でエポックメイキングな存在として記憶されています。
そんなスカイラインRSは、今も熱狂的なファンによって大切にされ、年数回行われるR30オンリーのミーティングでは各オーナーの下で大切にされているRSたちが元気な姿を見せています。
©️Motorz
これからもスカイラインRSシリーズは名車として輝き続ける事でしょう。